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# まがめ(中村商店)
2011/04/03 19:14
僕の人生は、寄り道の多い人生のように思える。


やりたいことはありつつも、いろんな目先の楽しみや幸せに気を取られて、廻り道をさんざんした挙げ句、なんとなくやりたかったことに戻って来ている。

時には、僕が廻り道をしたことに依って迷惑をかけた友人に、軌道を戻してもらってさえいる。


迷惑をかけた友人には感謝と陳謝が絶えないが、今となってはその廻り道は完全に無駄、というわけではなかったのかな、とも感じる。

叱責は甘んじて受ける。

全てが中途半端といえば中途半端だが、浅く広くの知識といえば浅すぎるが少し広い、ように思える。

音楽も少し、写真も少し。全く知らないわけじゃない。


人生でなくたってそうだ。

バイトや稽古・撮影帰りに古本屋さんを見つけて、「ドラえもん」「ドラゴンボール」「はじめの一歩」「今日から俺は!」「ふたりエッチ」をずっと読んでしまい、帰宅が遅くなって次の日寝坊する、ということも珍しくはない。


小学校の頃も学校の帰りに、友達と一緒にたまに駄菓子屋に行っていた記憶がある。


それが表題のまがめ(本当は「中村商店」)である。

なぜ「まがめ」と呼ばれていたのかは未だにわからない。

九十九里町に流れる「真亀川」から来ているのかとも思ったが、それとはどうやら関係ないらしい。

おばさんの顔も亀には似ていなかったと思う。
由来について情報があれば是非伺いたい。

通っていた公文式の帰りに稀に一人で寄ったりもしたが、小学生の頃から変わらず守銭奴である僕は、買ったとしても「ヤッター!めん」(当時10円)ばっかりだった。

「ヤッター!めん」とは、フタの裏にくじが付いており、10円だとか50円だとか、時には100円と当たりが書かれていて、それをおばちゃんに見せるとその値段分のお菓子と引き換えることができるお菓子だ。

「ヤッター!めん」は他の駄菓子と比べて群を抜いて当たりやすく(きなこ棒と双を為して当てまくっていた)、僕は一つ買って、10円が当たったらまた「ヤッター!めん」をもらって、次は50円が当たって「ヤッター!めん」を5個もらう。というバカなガキだった。

いやしかしこれがおいしくて、癖になってしまう味なのだ。


友達と行ったときは、小学生なりに見栄を張りたかったのか、「ポテコ」(当時50円)を買って指にはめて食べたり、「ウメトラ3兄弟!」(当時4個入り30円)を買って一つだけあげたり、贅沢に「ブタメン」(当時60円)を買って、お湯を入れてフタにフォークを刺して3分の長さを実感したりしていた。

その小学生にとっての楽園世界に、中学生になってからは行かなくなっていたのだが、まがめがあったお陰か、僕にとって「『駄菓子屋さんがある街』は良い街」という、街を判断する上での基準のようなものができていた。

駄菓子屋さんのおばちゃんというのは、子供にとってその地域の顔である。

例え顔を忘れてしまっても、その駄菓子屋さんにいたおばちゃんが「優しい人だった」ということは忘れない。

口では「うるさいなー」とか言っても、基本的にはおばちゃんのことがみんな好きだ。


だから、一人暮らしを始めてから読んだ「20世紀少年」に出てきた「ジジババ」という駄菓子屋さんには、すごく親しみを覚えた。


そして今日、新居の近くに「まがめ」を見つけた。

通称はわからないが、「飯塚商店」というその駄菓子屋さんは「まがめ」より少し広かったが、商品数は同じくらいだった。

約10年振りに「ヤッター!めん」を見つけた僕は喜びに震えていた。

飯塚商店

そして写真の通り、いろいろ買ってしまった。

これだけ買って、326円。

小学4年生の時、月のお小遣いが300円だった僕には、ブタメンもポテコも贅沢だったし、グライダーはどうしても手が届かなかった。


本当はお店の写真を撮りたかったが、おばちゃんに「うちはそういうのやってないの。ボロボロだし汚いし、やめて。」と言われたので、言うことを聞いた。

思わず写真を撮りたくなる、たくさんのクソガキの思い出が染み付いたような、仰る通りボロボロのお店。


 「この辺りではうちくらいになっちゃった。みんな辞めちゃったよ、子供も少なくなってきたしね。」


お店には、お金を入れて遊べる、すごく年季の入ったゲーム機が何機もあった。

「ぴょんぴょんカエル」「とんとんびょうし」というスロットのようなゲームや、トランプのゲームや、麻雀もあった。

「また来ますね」と約束をして、僕は家に帰った。

そして今、お湯を入れたブタメンのフタにフォークを刺して、この日記を書いている。

駄菓子には物語がある。

それにしても、「ヤッター!めん」当たらなくなったなぁ。


飯塚商店は江戸川区の区画整理によって間もなく取り壊され、幅16mのバス通りが出来る。
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# ポイ捨て
2010/01/11 01:19
 天地神明に誓って言うが、僕は生まれてから一度も故意にポイ捨てをしたことがない。
 なので、食べ歩きしたゴミなんかを上着のポケットに入れてしまう癖がたまにお目見えして、周りに知っている人がいないかキョロキョロしたりする。


 実際問題、駅のホームや電車内でそこら辺にうっちゃっておいても駅員さんが拾ってくれるし、公園だったら毎日来るかは知らないが清掃員の方が拾ってくれるし、誰も拾わなくても土に溶けてしまうかもしれない。
 言う人が言ったら「川底の空き缶はザリガニとかの住処になってるから、拾ったらダメ!」なんて人もいるかもしれない。ザリガニは空き缶にしか住めないとでも思っていたら、僕はその人をかわいそうに思って放っとく。
 つまるところなぜ人間はゴミを捨てるのか。歩いてていきなり革ジャンをポイ捨てする人間はいまい。ゴミの定義とは「有用でない」ということなんじゃないか、と僕は思う。
 たとえば、飲み終わったペットボトルをカバンにしまう人はいても、食べ終わったメロンの皮をカバンの中にしまう人はいないだろう。それはやはり、空きペットボトルは有効活用できるからだ。メロンの皮はデロリアンくらいにしか使えないんじゃなかろうか。そもそもデロリアンを持っている人間はそうそういないんじゃなかろうか。
 これは逆説的に言えば、「ゴミに付加価値を付ける」ことによってゴミは減るのではないだろうか。価値があるものは決してゴミではないからである。
 人間というのはどいつもこいつも想像を絶するほど短絡的で馬鹿だから、自分の持っている資源が、「一度誰かの手に渡って」再利用される、ということをあまり想像できていない。なのでこの「一度誰かの手に渡って」というのを省けば、自ずと道路脇に落ちているゴミはなくなるのだ。
 例えば、整髪剤のムースのスプレー缶なんか詰め替えにできるならした方が良いと思うし(おそらく詰め替えにすると何か不都合があるからしていないだけだろう)、お菓子の包装紙なんか全て「10枚集めたら1つあげる」なんてものにしても良いと思うし、そこらへんのおじいちゃんがワンカップの空き瓶を花瓶に使ってるのなんか初めて見た時はおしゃれだなと思いました。
 何より、「一度誰かの手に渡って」というのを省けばいいとか言っておいてあんまり「こうしたらいい」って案が浮かばない僕自身が「想像を絶するほど短絡的で馬鹿」なんだが。

 ゴミを捨てるのを悪いと言うわけじゃない。
 人間が人間である以上、いろんな何かを誰かに頼って生きていくべきなのだ。そこには当然、自分の出したゴミを誰かに処分してもらう、ということも含まれると思う。僕自身毎日そうである。
 ただ、所かまわずポイ捨てしてしまうような不潔な出来損ないどもは、所かまわず糞尿を垂れ流しているのと特に変わりはないのだ。「ゴミをゴミ箱に捨てられない」というのは、社会人として致命的な欠陥であると同時に、人間として独立していないということをあえて自分から表現しているように思える。
 モラルハザードのこのご時世、ゴミをゴミ箱に捨てられない大人、順番守れないで割り込みしちゃう大人、他人の顔の前でゲップしちゃう大人、安全運転してる車をあおっちゃう大人、周りに迷惑かけに社会に出てきたとしか思えないようなゴキブリみたいな大人ばっかりでも、そんなクズ野郎も家に帰れば良いお父さんだったり、良いお母さんだったり。彼らの子供たちが一番かわいそうだ。
 子は親の言動を真似る。モラルハザード世代の親たちは、知らず知らずに自分の子供をゴミのような人間にしている。ゴミのような人間にしたのは親自身なのに、子供に都合の悪いことがあると親は怒る。負の連鎖だ。
 成績至高主義の核社会化は今後ますます進み、今に「教授のゴミをゴミ箱に都度捨てにいく仕事 時給:1300円」なんて仕事ができるかもしれない。


 僕は「将来ゴミ屋敷に住みたい」というタイプの人間ではない。そう言うタイプの人間がいるのかどうかはあまり興味がないが、例えゴミ屋敷に住んだとしてもいつか退去勧告かテレビ局のおせっかいの掃除屋が来るのはわかっている。
 自分にとって都合の悪い人間が来ても、僕の逃げ足はザリガニほど早くない。

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