2025/04/29 23:34
|
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
2010/04/28 23:13
|
”美とは可食性のものであろう、さもなくば存在しないであろう” これはサルバドール・ダリの「モダンスタイル建築の恐ろしく可食的な美について」の論文の締めの言葉とのことだが、なるほど確かに言い得て妙である。 俗に世間で「美しい」と軽々しく評価されるもののほとんどは、美味しそうだ。 「美味しそう」という表現の定義は個々人によってかなりの差異が見られると思うが、それらは幼き日の実体験に寄るものなどが大きいのかもしれない。 昔食べて美味しかったカラフルのキャンデー、はたまたお母さんのきんぴらごぼうとか。 幼少期の食体験は後の美的価値観に大きな影響を及ぼすものだと僕は考察する。 だけれども現代日本を支配する「人間の美しさ」のほとんどは、「大福」なのではないかと思う。 あるいは、大福が現代日本ではなく僕個人の頭の中で「美」の象徴と化しているのかもわからない。 なぜ「大福」なのか。 単純に白くて柔らかいからである。 僕は大福は大好きである。また雪見大福などは垂涎ものである。 白くて柔らかい物を美しいと思ってしまう。 白くて柔らかくてすべすべしているものは全て美しい。 しかし食べ物は見た目が美しいだけでは、食べ物たる所以はどこにもなくなってしまう。 食べ物は実際に美味しくて初めてアイデンティティを得るのだ。 我々人間も然り、中身が素晴らしくあろうとする物は、相対的に美しい。 役者に話を限定しても、また然りである。 「12人の怒れる学校へ行こう!」 ご来場いただいた方、誠にありがとうございました。 楽しんでいただけたとしたら幸いです。 もちろん、自分の役とも真剣に向き合いましたが、 個人的には「役者とはどうあるべきか」ということを、 とてもよく考えた芝居でした。 外面だけが美しくては、美しいとは言えません。 向上心や謙虚さといった、本物の「ひたむきさ」があって、 人間とは初めて美しいものだと思うのです。 言ってしまえば、そのひたむきささえあれば 外面が美しくなくても、逆説的に美しいのです。 そのへんは僕が語るよりTHE BLUE HEARTSの「リンダリンダ」を聞いた方が早いです。 むしろひたむきでない人間には、美しさなど頭の片隅に置く権利すらない。 そんな腐った心は、煮ても焼いても食えたものではない。 それにしても本当に辛かったです。 いろんな意味で。 ポケモン風に述べると 「コーヒーはがまんをおぼえた!」 といったところでしょうか。 でもいくら辛い思いをしても お客様が楽しめるなら僕はなんでもいいです。 ただ、たくさん我慢したので、 何日間か実家に帰ってうだうだします。 PR |


![]() |
|

![]() |
トラックバックURL
|
忍者ブログ [PR] |
